ヘッセの”クヌルプ”を読んでいる。わたしはヘッセやドストエフスキーを読むとき、いつも決まって”恋愛”というものについて考える。川端や漱石の作品からは更に深い印象を憶えるが、あれはどうも恋愛ではない気が最近し始めている。
恋愛というものは極めて主体性を伴うものと考えられているので、評論はほとんど無意味だ。何かを語るとすれば物語の力を借りるしかない(ロラン・バルトの語り口が唯一の例外だと思う)。要するに、ここで私の思ふところを述べることはない。
余談。自己を主人公とした物語を紡がない人間の視点は、常に観察者のそれである*。松枝清顕ではなく、本多繁邦だ。豊穣の海のクライマックスで、本多は智慧に至る。やはり私が求めているものも智慧なのではないだろうか。
(* 実のところわたしは非常に女性からモテないので、止むを得なかった面もある。)
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