"ひっそりと続く古本屋"と聞けば、どこか人通りのない場所にありそうだ。けれども、大勢の行き交う通りに溶け込んだようなその入り口を我々は見落としがちだ。下北沢へ抜ける茶沢通りは、週末になると歩行者天国になり大勢の観光客が訪れる。私がその通りの静かな佇まいの古本屋に気付いたのは、三軒茶屋に暮らして半年を過ぎた頃だった。木を隠すなら森、賢人たるもかくあるべし。
近頃は、良い運動になるので渋谷のオフィスから三軒茶屋まで246号線沿いを徒歩で帰宅している。"1Q84"の冒頭部分の舞台に描かれている辺りである。ここでも、駒沢側の通りを西へ下り池尻を越えたところに古本屋を見付けた。うず高く、天井まで積み上がった本の中で老齢の店主が一人、パソコンラックの前に腰かけて旅行の写真が並ぶブログの画面に向かっていた。岩波書店の見慣れた背表紙が並ぶ一角にヘッセの"シッダルタ"を見付けたのでレジへ持ってゆく。
バラモンの家に生まれたシッダルタは幼い頃より学問に励み、家を捨て沙門(苦行者)と生活を共にし、ゴータマ(お釈迦様がモデル)との邂逅を経て、俗へ下る。俗の垢にまみれたシッダルタは絶望の淵で命を断とうとするが、渡し守のジャスティーヴァとの出会いに救われ、彼と生活を共にし始める。
そして、ここでシッダルータの遍歴における最後の試練が訪れる。
思いもかけずに目の前に現れた息子、彼は自分の生まれ育った世俗に戻るため、父親であるシッダルタの元を去る。シッダルタはジャスティーヴァの力を借りてこの愛執を乗り越え、ついに真理を悟る。ここがすごい。そこまでの派手な遍歴と比べると、愛憎に苦しむシッダルタは平凡であまりにも我々の身近な存在だ。たしなめるジャスティーヴァの言葉も一見退屈な決まり文句と響く。輪廻でも涅槃でもない、シッダルタに最後に課されたのは我々のよく知る問題だったのだ。
こうして覚者となったシッダルタの元を、かつての友ゴヴィンダが訪れる。シッダルタとの出会いによってこの修行僧もまた境地に達するのだが、このシーンは私に三島由紀夫著、豊穣四部作の松枝と本多を思い出させる。このつながりについては、もう少し考えてみたい。
訳者の手塚氏はヘッセから献本を受け、その表紙には原文の一行が署名と共に直筆で記されていたという。"輪廻といい涅槃というも言葉にすぎない、ゴヴィンダよ"
ところで、この作品は"ヘッセのファウスト"と評されているそうな。西洋人の個の崩壊と東洋哲学への憧憬なんたらに興味がないが、このフレーズは中々気に入った。たましいの遍歴を描くという点で、文学史上の双璧を成せる強度を持っているのだろう(ファウストは読んだことないんだけど)。ファウストが"ゲーテの福音書"でシッダルタは"ヘッセの福音書"と言ってもいいんじゃないかなあと思うんだけど、これは流石に受容されないか。
今日は有給休暇を取ってのんびり過ごしたんだけど、天気がよくてよかった。
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