なんだか昨日のポストが書きたいところまできちんと掘り下げてなかった感がある。
なのでもう少し"歌うクジラ"の話にお付き合い願いたい。
私は集団に馴染むのがとても苦手だ。
別に無闇やたらと波風を立てたりするわけではないが
いつも中途で居心地が悪くなる。
飲み屋でも常連客がまるでサークルのような店は敬遠してしまう。
名も知らぬ御仁と相席して一期一会の交わりの為に出かけていくのであって
ベタベタと馴れ馴れしい客のいる店に行くのは御免だ。
(だから必ず、老壮の紳士が集まるような小さな店を選ぶことになる)
そういった"集団"を考えるとき、私はいつも"大きな赤ん坊"というメタファーを見る。
赤ん坊は周りの大人たちによって外敵から守られ、個体として完全に充足している。
集団に帰依するという安心感は、この赤ん坊のクローズドな充足感そのものだ。
一方で満足が得られない時や不快を感じたとき、赤ん坊は全力で泣いて周囲を脅かす。
実は人間の最も暴力的な姿というのは、泣いてる赤ん坊なのではないだろうか。
自分の外の環境に対して、まったく顧みることを知らない。
私にはその暴力性が何よりの恐怖だ。
人間が集団となってふるったおぞましい暴力は歴史が証明するところだが
その萌芽は世の至るところに溢れている。
多くの人は、イエスキリストを磔刑に処したのがどんな人間だったのか
そのことにあまりにも無知である。
そういう集団に馴染んでその一部となる大多数の人たちを見て
安心感が得られるので羨ましいと感じたり、
または別の安心感を得る為に見下したりしても仕方がない。
これはどちらの側が正しいとか優れているわけではなく、
単に世の中にはそういった集団を受容出来る人間と拒否しか出来ない人間
この二種類がいるだけのことだと思う。
"歌うクジラ"に出てくる反乱移民のメンバーは、誰もが日常的に"不安な表情"をしている。
仲良くすることと信頼することが関係のない世界に生きている。
世の中の少数の人間に向けられたメッセージだが、そういう人が何よりメッセージを必要としている。
安心感の代償として得られるものは"自由"である。
おお、ほんとだ、書き込めるようになっていた。
返信削除なんかこれ見ていろいろ考えたんだけど、MOKUANさんが嫌いなのはどっちかっちゅうと集団じゃなくて「集団心」とか「群集心理」ではなかろうか。
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/deai/gunsssyu.html
個人的には、個としての理性を失わずに孤独を感じずに済む単位、せいぜい3~6人くらいの分隊規模くらいがいちばん好きだなあ。なんかそれ以上の単位になってくると面倒ばっか増える印象がある。
とか思う自分も、集団を受容できない側の人間なのかもしんない。
でも集団にいる人より大人な気はまったくしないw
……俺個人が未熟なだけかorz
群衆心理っていうのか。
返信削除確かにサッカーの応援なんか観てると、
ああいうのは苦手だなと思うね。
スポーツ観戦自体は大好きなんだけどさ。
比喩に幼児を用いているんだけど、どちらが大人だのどうってことはないんじゃない?
むしろ日本の組織に能く馴染まない人間は子供扱い
っていうか、そういうレッテル貼られる傾向があるじゃないですか。
でも人数の問題ではない気がするな。
そういう傾向の人が2人でも集まれば
あの独特な空気を作ることが出来るんじゃなかろうか。
> 日本の組織に能く馴染まない人間は子供扱い
返信削除ああー、自分の意見やアイデアくらいならまだしも、正義感や道徳まで集団に合わせて麻痺させるのが「大人だ」みたいな。文脈としては「大人になれよ」みたいな形で使うケースが多いんだろうけど。
よく考えると不思議だよね、文脈繋がってないのに。
> 人数の問題ではない気が
3~6人くらいの集団だと、個を顧みないと集団自体が即崩壊しちゃうから個を圧殺する方向に行きようがない……というか。集団に属して安心するわけにはいかないし(個を発揮することをやめたら集団にならなくなる)集団が個を圧殺しようとしてもまだ抵抗できる範囲じゃないかなと。
……とか思ったんだけど、やっぱ人数の問題じゃないよねこれw
いじめっこグループとか5~6人で群集心理発生させてるいい例だし。
それは日本人に独特の感覚なのかもしれない。
返信削除少なくとも米国社会にはない感覚だと思うけれど
他ではどうなのだろう。
すぐに感情的になってクレバーな議論が出来ない場合は一人前と見做されないけれど、一方で明文化されていないルールに従わないことが人間的な成熟に関係していると考える人はいない。